慶長3年(1598)溝口秀勝が秀吉から新発田領6万石を賜り、加賀国大聖寺(現在石 川県加賀市)から新発田城主として入城した。江戸時代には外様大名として、明治維新まで統治。山潟の村々は、新田開発で出来た。2024/3/30kohi
姥ケ山新田は親村が鍋潟新田で、寛永6年(1629)頃から、長潟新田は親村が横越村で、寛永17年(1640)頃から開発がすすめられた。西山二ツ新田については不詳。2024/3/31kohi
浄土真宗の宗祖親鸞聖人(1173年生まれ)が西方寺(「逆さ竹」で有名)に滞留していた時期、信心深い老婆の日参に驚き家を訪ねたところ指さした方角に丘があった。「それなら、そこはウバヶ山だ」と言われたことから。2024/4/1kohi
『山潟のあゆみ』によると、「山二ツの旧家の古文書に、山二ツの地名を『山二津』と記したものがある。西の方の大きな砂山は、西風を良く防いだ」とのこと。また、風よけの船着場(津)があった。諏訪神社は、今でも小高い所に在る。2024/4/2kohi
大聖寺から移住した8人の農民は開墾を始めた。その一人「清五郎」は病気で亡くなった。その地に初めて墓が出来たもので、この辺りを清五郎と呼ぶようになった。写真は8人に因んだモニュメント。2024/4/4kohi
左側から時計回りに信濃川、阿賀野川、小阿賀野川に囲まれた地域は横越島と呼ばれた。円で囲んだところが山潟地域にあたる。川の堤防が切れて、度々洪水が発生して、人々を苦しめた。2024/4/7kohi
横越島領内は亀田郷と呼ばれた。低湿地での新田開発は苦労の連続だった。湖底から泥をジョレンですくい出し舟に積み上げ、それを田んぼに運ぶ作業の連続だった。せっかく積み上げた田んぼの土が、洪水で流され無に帰すことが度々起こった。乾田への願いが日に日に高まった。2024/4/9kohi
1913(大正2)年8月、連日の大雨により木津の堤防が 決壊した。これを知った下郷(旧石山村など)の人々は、いち早く砂丘の低くなっているところへ土のうを積んだ。そうなると、上郷(旧大江山村など)の田は排水ができず稲が全滅する恐れがでてきた。上郷の村人たちはその堤防を切り崩そうとし、下郷の村人たちはそうはさせまいとし、双方数千人がにらみ合い、警官が出動しようやく騒ぎを収めるまでの事態になった。2024/4/14kohi
1889(明治22)年、長潟新田、姥ケ山新田、新山二ツ新田、鍋潟新田が合併して山潟村が出来た。その後、1901年(明治34)年石山村になった。以後、1943(昭和18)年12月8日、新潟市に編入された。2024/4/15kohi
姥ケ山地内の小屋の軒下につるされた木の枠は、手植で苗を植える前に目印となる跡をつけるために使用した。主に半湿田、半乾田用。転がしながら跡をつけた。2024/4/16kohi
蒲原神社は、創立1200年以前と推定される蒲原郷の総鎮守で、現在の場所に遷宮したのは元禄3年(1690年頃)、元は阿賀野川河口(当時は、信濃川河口に注いでいた)の蒲原津にあった金鉢山と呼ばれた場所に「青海社(おおみのやしろ)」、後に「五社神社」と呼ばれるようになった。昭和56年(1981年)に現在の「蒲原神社」へと改称。農民たちは、その神社が出す米の作柄を占う御託宣に注目した。(写真は大正期)2024/4/18kohi
新田作りには苦難の元となった水は、水運として物流に役立った。刈り上げた稲わらをはさ木まで運んだり、年貢米を栗の木川河口の米蔵に運んだりするのに好都合だった。(写真は昭和初期の栗の木川、今は道路となっている)2024/4/19kohi
開墾の苦しみを癒し、幸せな現世・来世を願う農民たちは宗教信仰に向かった。そして、住んでいる地に寺院招来の機運が高まった。(写真は姥ケ山地区にある即往寺)2024/4/21kohi
明治になり、近代教育制度の出発点は5年(1972)8月の学制発布だった。子どもの労働力も必要とした当時では、就学率の向上は思うように進まなかった。そこで12年(1879)教育令を公布して、財政の負担軽減を図った。(写真は大正期の山潟小学校の様子)2024/4/23kohi